津和野藩校養老館は、1786年に津和野藩主亀井家八代矩賢の創建にかかり、はじめは堀内の下中島の地に設けられたが、1853の大火で焼失し、1855年にあらたあらためて現在の位置に建設された。現在残っている建物は、門より入って左が剣術教場、右が槍術教場であり、正面の土蔵は御書物蔵である。建設当初は、この場所の左には居合柔術教場・講堂が続き左億には弓砲術教場・弾薬庫があった。代々の藩主、特に十一代は文武の推奨に力を入れた。西周・森鴎外・山辺丈夫・など全国に名をとどろかせた幾多の賢哲を育成した養老館は津和野藩校の跡として貴重な文化財。
津和野町役場・大岡家家老門
この建物は1919に鹿足群役所として立てられた。郡役所の制度が廃止され、一時警察署として使用されていたが、1955の町村合併で津和野町役場となり現在も役場庁舎として使われている。外観は今日まで大きな改変はなく当時の面影を良好に残している。大正期に流行した和風公共建築で、木造瓦葺平屋建。両脇の部屋を前面にせり出した平等院鳳凰堂をイメージした外観となってる。
表門は家老大岡家の正面が明治に取り外され保存されたものを今の場所に戻し、あわせて周囲の土塀なども復元された。前面の殿町通りは江戸期の面影を良好に残しており、はじめは道の西側のみに水路があったが、1885年の国道整備に伴い、新たに道路の両側に水路が整備された。鯉や花菖蒲も津和野のイメージの一つとなっている。
多湖家表門
多湖家は、津和野藩の筆頭家老を藩主亀井家十一代に渡り務めた。この門は亀井家の表門で、三間一戸薬医門、切妻造瓦葺で、1853年の大火の後の建物である。左手に物見が、右手に門詰め所が残る。構造、意匠とも簡素な造りであるが、威厳ある江戸期の武家屋敷門の建築様式を今に伝えている。敷地は背面の城山の裾野までであった。敷地内に江戸期の二階建の屋敷と庭が残る。