種類:歴史観光 戦国時代 上杉謙信 一人旅
上杉謙信は、戦国時代最も有名で人気の高い戦国大名の一人。越後の龍や虎と呼ばれ、同じく英雄として肩を並べる武田信玄の宿命のライバルとして戦国時代活躍する。その圧倒的な強さから軍神と呼ばれたほどである。また、戦争以外にも越後国の経済と産業を多いに発展させた政戦両略の人物であった。越後を平定し、周辺の国を信玄や北条氏の侵略から救い続けただけでなく、武田信玄と織田信長の最大のライバルとして存在し続けた。
謙信は、1530年に越後の守護代・長尾為景の三男として春日山で生まれた。彼は虎千代と名づけられ、林泉寺に7歳から14歳まで預けられる。ここで、文学や戦略などを学んだ。1543年に元服して景虎と名乗る。すると、すぐに兄に変わって軍隊を率い三条城、次いで栃尾城に入る。ここで、1544年に兄・晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こし、景虎が篭る栃尾城を攻め込むが、少数の城兵を二手に分け、背後からの奇襲と混乱する敵陣をもう一方で叩くという戦法で快勝し、謀反を平定する。これが景虎の初陣であった。
1545年から1546年にかけて、長尾家を裏切った黒田家を討伐に成功すると、病弱な兄に代わって長尾家の当主となる。一部従わなかった一族を1550年には平定し、若干22歳で越後の領土を完全に統一する。
越後国平定の後、関東管領の上杉憲政を迎え入れる。この頃より、甲斐の武田信玄が信濃国に侵攻を始める。信玄の攻勢に独立して対抗できない信濃の大名は景虎に援護を求めるようになる。これより、1553年から10年間に渡って5度繰り広げられる川中島の戦いが始まる。
1560年には、越中の大名椎名康胤が神保長職に攻められ、景虎に支援を要請する。これを受け景虎は初めて越中へ出陣、すぐに長職の居城・富山城を落城させる。さらに長職が逃げのびた増山城も攻め落して逃亡させ、康胤を援けた。この年、ついに北条氏康を討伐するために、小田原に向かって出陣を開始する。関東に入ってからは、上野の城を全て攻略し、厩橋城を攻略し拠点とすると、勢いにのった景虎は鎌倉まで攻略し、小田原城を包囲する。しかし、武田信玄が川中島に海津城を築城し善光寺の領土に進軍していたために、小田原城の包囲を解いて越後に退却する。
この鎌倉滞在中に、上杉家の養子となり、長尾景虎から、上杉政虎と改名する。
1561年には、1万8千の大軍を率いて川中島に出陣する。5千を補給の為に善光寺に残し、自らは残りの兵を率いて妻女山に陣取る。武田信玄は2万の兵士を率いて海津城に入る。その後、二人は一騎打ちをするほどの大合戦を行う。これが、戦国時代最も有名な合戦の一つ、「第四次川中島の戦い」となる。この戦いは引き分けに終わるも、信玄の名だたる武将を討ち取ることに成功したが、善光寺以南の勢力を完全に失ってしまう。
この年には、足利義輝より一字賜り名を、上杉輝虎と改めて名乗る。
1562年から1564年まで輝虎は関東管領として幾度と無く出陣しては関東の混乱を静めた。しかし上野を攻めている時、神保が再び反旗を翻して後背を襲うと、再び兵を引き返しすぐに越中を再び平定する。しかしこの機に乗じて北条氏が北へ侵略を開始する。輝虎は再び関東に兵を動かし、下野の大名を平定し、和田城を陥落させる。この時、今度は信玄が北に進軍を開始するために再び越後へと帰る事になる。
1564年には、第五次川中島の合戦が行われると、輝虎の軍勢は野尻城まで撃退されてしまう。輝虎は8月にこの地に入るが、信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。
1566年には、北条氏の侵攻に苦しむ安房の里美氏の援軍の為に出陣。北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せた。しかし、この城は攻略する事が出来ず、撃退されてしまう。この事で関東の豪族が上杉方から北条方へと寝返ってしまう。
1568年に武田・今川・北条の同盟が崩れると、1569年に輝虎は北条氏康と和平を結ぶ。後背の憂いを断った輝虎は越中の平定に専念するようになり、すぐに椎名氏を滅ぼし、越中を平定する。
1570年北条氏との同盟の際、氏康の息子を養子として受け入れ、彼の名前景虎を与える。
この頃から、悩む事が多くなった輝虎は林泉寺で禅の修業を始める。開眼の後、恩師7代目住職宗謙から一字受け取り不識庵謙信と名乗るようになる。
1571年には北条氏康が死亡し同盟が破棄される。北条氏は再び武田家と手を結ぶ。京都上洛の夢を持つ信玄は、北条氏と手を結ぶ事で西への侵攻に専念できるようになる。信玄は越中の一向一揆も誘発させ謙信の動きを封じる。1573年に、反武田信玄を旗印に織田信長と同盟を結ぶことになる。
信玄はいよいよ進軍を開始し、三方ヶ原では家康を完膚なきまでに打ちのめすと次は信長と進軍するも途中で病死してしまう。この時、謙信は越中、加賀、能登、飛騨を平定するも、北条軍は北関東にまで進軍してくる。再び軍隊を関東に戻し、上野金山城主の由良成繁を攻撃、3月には膳山城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を立て続けに攻め落とし戦果をあげた。しかし、金山城を陥落する事は出来ず、越中前線に引き返すことになる。
1576年、信長が本願寺への攻略を開始すると、本願寺の顕如は謙信に援軍を要請する。本願寺が起こす一向一揆に長年苦しめられていた謙信は本願寺との同盟を結ぶことで一揆の問題を解決する。この事はついに謙信にとって上洛を可能にすることを意味した。
また、武田勝頼とも同盟を結び、信長包囲網を形成する。
1576年に一揆から開放された謙信はついに越中を平定しする。京都までの領土を全て平定する為に、謙信は次に能登へと進軍を開始する。能登の畠山氏はすでに信長と手を結んでいた。また彼の居城七尾城は大変堅固な城で在ったが、半年後には能登も平定し勢力下とする。信長は柴田勝家、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政に3万の兵を与えて、能登の援軍を送る。途中、七尾城の落城を知ると、勝家らは撤退する。この時、手取川にて謙信より激しい追撃を受ける。
1577年3月13日、春日山城にて没。享年49歳。
最後の句:
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒
「49年の我が人生は、まるで夢のように儚く、一代の栄誉もまるで一杯の酒の様であった。」
(参照:オフィシャル案内現地観光情報等)