年月日:1553年から1564年にかけて5回
主戦場:川中島
交戦勢力:上杉軍 VS 武田軍
結果:決着付かず
川中島は、長野県長野市の千曲川と犀川が合流する地点で、古来より越後と上野と甲斐を結ぶ交通の要所であると共に土地が二毛作が行えるほど肥沃で、脆弱な土地である甲斐の武田信玄としては必要不可欠な土地であった。
川中島の合戦の年表
第一次(1553年):布施の戦い
第二次(1555年):犀川の戦い
第三次(1557年):上野原の戦い
第四次(1561年):八幡原の戦い
第五次(1564年):塩崎の対陣
最も有名な合戦は、第四次川中島の戦いである。また第二次川中島の合戦も200日余に及ぶ対陣を行った戦いである。第二次川中島の戦い(犀川の戦い)は、1555年4月から10月までおよそ200日間犀川を挟んで謙信と信玄は対陣した。10月15日に、今川義元の調停によって解決する。謙信は善光寺平を、信玄はそれ以南の信濃の支配権を有することで解決する。
第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)
1561年に行われた最も有名な川中島の合戦で、一般に川中島の戦いといえばこの戦いを指す事が多い。唯一会戦が行われた戦いで、動員兵数も戦死者数も圧倒的な規模である。上杉謙信率いる越後軍は1万8千、武田信玄率いる甲州軍は2万で、戦後信玄と謙信合わせて4千の戦死者をだす日本史上で最も熾烈な戦いの一つとなっている。
合戦の様子は江戸時代に書かれた「甲陽軍鑑」がモデルになっている場合が多く、有名なシーンの多くは実際はフィクションである。しかし、他に実際の戦闘を示す資料は無い為具体的な戦いの様子は不明である。ただこの時期に謙信と信玄の間で大規模な戦闘が行われれたのは事実であり、多くの社寺にその記録が残る。
8月15日、謙信が善光寺へ1万8千の兵士を率いて入る。その内、兵站と防御の為に5千の兵を残し、16日1万3千を率いて川中島の南妻女山に本陣を敷く。妻女山は信玄の防御の拠点、海津城(松代城)の西側に位置する山で、川中島が一望出来る。
信玄は8月24日に2万の兵士を率いて茶臼山に到着。その後、29日に海津城に入城する。謙信は信玄が入城するまでに海津城を攻略する機会はあったにもかかわらず、信玄が入城するまで動かなかった。その意図は不明である。信玄と決着を付けたいと思う謙信の思惑があったのではと考えられる。
その後、10日ほどお互いに睨み合いが続く。そして、信玄の軍師山本勘助と馬場信房が謙信を攻略する戦法を具申する。信玄はこの戦法を採用し、妻女山攻略を開始する。採用された戦法は啄木鳥戦法と呼ばれ、二手に分け、一部が攻めあがり圧力をかけて、反対側より出てくる敵を迎え撃つ戦法である。
9月10日、信玄は彼の軍隊を二手に分け、1万2千の兵を持って謙信の立て籠もる妻女山を攻め込ませ、彼自身は八幡原に残りの8千を率いて出てくる謙信を待ち受けた。しかし、この戦法は謙信によって見抜かれ、謙信は逆に妻女山を殻にして本陣をひそかに山の裾野に移してしまった。
決戦の日は朝から濃い霧に包まれていた。謙信の奇襲作戦は成功し、僅か8千の信玄に対して12千の謙信は数の圧倒的な有利をもって信玄に襲い掛かった。また、信玄の1万2千の軍勢は妻女山に閉じ込められしまう。この時に謙信と信玄の一騎打ちがあったとされている。この戦いでは信玄の副将で弟でもある信繁が命を懸けて信玄を守り奮戦する。昼には妻女山の1万2千の信玄の軍勢が包囲を突破し八幡原に駆けつけたために謙信は撤退を余儀なくされる。
一般に、謙信が前半戦に勝利し、信玄が後半戦に勝利したといわれている。この合戦は江戸時代には人気の高い物語であった。実際の戦いの様子は不明で、両者の記録では両者とも勝利であったと伝えている。しかし、謙信は北信の支配権を失っているし、信玄は副将の信繁をはじめ山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次など名だたる名将を殆ど失ってしまっている。特に、弟・信繁の戦死は信玄にとって部下の調整役を失う結果となり、その後の武田家の崩壊の原因につながって行く