17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学んだ。30歳の頃から藩の要職に就く一方、京都に赴いて国事に奔走した。1866年には坂本竜馬の仲介によって薩摩の西郷隆盛らと討幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。
明治新政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の現実に力を尽くした。これらの功績より、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた。1877年5月26日、西南戦争のさなか、45歳で京都で病死。
この旧宅は1926年に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町へ寄贈されたもので、桟瓦葺二階建。木戸孝允が誕生した部屋や庭園など当時の姿をよくのこしており、国の史跡された。