天主構造:独立式層塔型3重3階 非現存
築城:1598年 南部利直
状態:城址
盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が1597年に嫡子利直を総奉行として築城を始めた。1598年の正式許可の後、築城工事が進められた。
城の縄張りは浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪としている。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外曲輪とした。また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(総構え)が配置されている。
築城工事は北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後1633年に南部重直が入場していらい、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となった。
その後、廃藩置県まで南部氏が収めた。
彦御蔵
現存する唯一の建築物で建築年代は不明だが、江戸時代後期に建てられた蔵と考えられる。構造は土蔵造りの木造2階建で外壁は漆喰塗り仕上げ、屋根は野地板の上に土塗りとし、その上に木造屋根組を持たせた二重構造で、その上に瓦を葺いている。
内部は18.5mx9.18mの総2階となっており、中央にある八角形の棟持柱3本で建物を支えている。さらに、建物の中央部分に仕切りが設けられており入口も二箇所あることから、それぞれ用途の異なる道具類を収めていたと考えられる。
もともとは別の位置にあったが、米内蔵があった現在の位置に移築された。