種類:忠臣蔵 歴史観光
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、高家旗本吉良義冬の嫡男として生まれる。吉良家は清和源氏足利氏の一族で、また母方は今川家につながる。
吉良上野介は忠臣蔵の悪役としてその名を轟かせているが、実物は名君であったと伝えられている。今でも、彼の領地であった三河では「吉良様」と敬称されており、当時も領民からは大変慕われていた。特に、私財を投じて洪水が多かった領地に堤防を築き、新田を開拓し、塩業を発展させた。彼の造った堤防は今でも黄金時代を到来させた堤防として「黄金堤」と呼ばれている。
13歳の時に、将軍家綱に謁見し、後に京都の使者を任され立派に退任を果たすなど、将軍の信頼の暑い人物であった。
忠臣蔵は、亡き主君の無念を晴らす正義の物語として知られているが、実際吉良と浅野の間にどのような怨恨が有ったのかは知られていない。最大の問題は、将軍綱吉が激怒し全く調査を行わないままに、殿中で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭を即日切腹させてしまった事である。その為に、浪士となった浅野の配下の赤穂藩士達は、主君の無念と蛮行に走り、誤解のままに吉良を殺してしまう。
その後、赤穂浪士達は、切腹が認められた事で義士となり、彼らの誅殺が正義の行いと認められてしまった為に、忠臣蔵のストーリーが出来上がった。
吉良に対する悪評の数々は信憑性が無く、江戸時代忠臣蔵が有名になるに伴い、後記された可能性がある。
忠臣蔵は、事実をもとにしたフィクションであり、それをもとに吉良を評価するのは余りにも哀れである。